2015年8月31日月曜日

清朝期のタランチ社会組織(「タランチ史」より)

ana yurtを読むための参考メモ

タランチの管理権はハキム・ベグ(hakim beg〔小説中のhékimbeg ghojam〕)、参賛総督大人の二人が掌握した。ハキム・ベグは徴税、民事とイスラム法の執行を担当し、ムフティ(mufti)、ハジ(haji)、アラム(alam)を任用して、彼らに一定の権限を与え、イスラム法の執行状況を監督させた。参賛総督大人はイリ将軍の命令をハキム・ベグに伝え、その執行状況を監督した。ハキム・ベグの報酬は毎年銀300両であった。ハキム・ベグはハン(han)が任命したが、タランチをどのように管理するかはイリ将軍が指示した。(560ページ)
 タランチはグルジャ(ghulja)、タシオステン(tash östeng)、アラオステン(ala östeng)、ニルカ(nilqa)、バイトカイ(bay toqay)、カシ(qash)、ボラボスン(bora bosun)、カイヌック(qaynuq)、フニハイ(hunihay)、ダダムトゥ(dadamtu)、キュネス(künes)、アラボズ(ara boz)、三道湾の13の谷に分かれて入植した。それぞれの谷が数個のユズ(yuz)に分かれ、各ユズ50戸、10戸を一組とした。これらの谷を管理するハキムの下にイシクベグ(ishik agha)と下に示す数人の小ベグがいた。小ベグとしては二人の郷ベグ〔yéza beg?〕、5人のミラブベグ(mirab beg)、10人の千戸長(ミンベギ、ming bégi)、1人のガズィンチベグ(ghazinichi beg)、1人のドゥガンベグ(dugan beg)、バジゲルベグ(bajiger beg)、82人の百戸長(ユズベシ、yüz béshi)、五十戸長(エルリックベシ、ellik béshi)、十戸長(オンベシ、on béshi)さらにパシャップベグ(pashap beg)、イチク(伊斉庫)といった小役人がいた。ハキムベグの役所には2人の護衛、8人の書記、8人の雑役夫、2人の小ベグ、2人の中郎〔侍従?〕がいた。イシクベグの部下は彼の半分だった。…ハキムベグには専用の用水路があり、イシクベグはその半分の水を使うことができ、定量の土地と水をガザナチベグに供給した。ハキムベグの農地を耕し雑役をする農奴(エンチ、yanchi)は100人で、イシクベグには50人の農奴、ガザナチベグと郷ベグには25人の農奴は、ユズベシには3人の農奴が付いた。農奴の地位は奴隷とあまり違わない。(『清代察合台文文献訳注』561ページ)
 ユズベシ(百人長)、エルリックベシ(五十人長)、オンベシ(十人長)は普通の村役人で、ベグの仕事を補助した。彼らはベグの命令を受けて一つの通りや一つの小さな村の各種事務を処理したので、彼らをベグ制度の末端組織とみることができる。(561ページ注9

 エンチはモンゴル語のinjeから来ている。その原義は嫁ぐときに花嫁について行く奴婢である。ウイグル語では付き従う者、農耕する者の意味に転化した。その階級的地位は農奴であり、ベグのために農耕、手工芸、雑役に従事し、納税の義務は負わなかった。清朝が新疆を支配してから、ベグの等級を整理し、等級に応じてエンチの人数を定めた。三品のハキムベグは最大100戸のエンチを使役することができ、最低の七品のベグも二、三戸のエンチを使役することができた。1884年にベグ制度の廃除に伴い取り消された。(561ページ注11

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