2014年1月23日木曜日

イリハム・トフティ:私の理想と選んだ道(4・完)



四、

 「ウイグルオンライン」は私が創設したウェブサイトである。その目標は全国の各民族人民と世界に新疆とウイグル人を知ってもらい、新疆の各民族人民に世界を知らせ、民族間の相互理解と対話を促進することである。管理の面では、いかなる独立、分離および無責任な扇動的言論の発表も禁止し、国家を転覆する言論の発表を禁止している。

 ウイグルオンラインの創設は、私がインターネットと検索サイトを見て、ウイグル人に対する憎悪を煽り、ウイグル人を攻撃する言論が大量に存在することを発見し、ウイグル人と漢人との溝が非常に深く、意思疎通と対話の場がないと感じたからである。漢人とウイグル人のネット民は互いに別々に不満を発散しているが、面と向かって議論し、真剣に相手の声を聴く機会がない。

 また、中国ではウイグル人について議論することが多いが、ウイグル人社会について基本的な常識を持っている人は少ない。これは多民族国家としてあるまじき状態である。他の人がやらないんだったら私がその空白を埋めようと思った。

 管理の面では、ウイグルオンラインはいかなる独立、分離および無責任な扇動的言論の発表も禁止し、国家の転覆を煽る言論の発表を禁止している。しかし新疆や他の地方の社会の時弊を批判する文章は善意から発し内容が真実ならば禁止しない。

 事前の私の予想通り、時々漢人の「怒れる若者」とウイグル人の「怒れる若者」が掲示板の上で激しくやりあうが、相違と対立は怖くない、怖いのは交流の機会が経たれることであり、交流があればいつかは共通認識が得られると、私は考えている。実際、少なからぬ漢人ネット民が以前私の言論が過激だとか偏っていると非難したが、彼らの中の多くの人から私の意見には賛成できないが、私の動機と善意は理解すると言って尊重するようになった。

 ウイグルオンラインは交流と意見表明のプラットフォームであるだけでなく、公益事業のプラットフォームでもある。近年、犯罪者に誘拐されたウイグル人の児童が内地でスリを働く社会問題が深刻化している。それは現地の人の安全感が脅かされるだけでなく、ウイグル人全体の民族のイメージを大きく傷つけていた。しかし、この誰もが知っており、日常生活における注目度の極めて高い問題が、その敏感さゆえにどのメディアも報道せず、どの組織・機関も体系的にこの問題の解決を図ろうとしなかった。それがどの民族であろうと、全ての子供が国の宝、社会の未来である。

 そのため、私はウイグルオンラインにウイグル人ストリートチルドレン救援プラットフォームを開設し、各地の民間の反スリ組織と積極的に連絡を取り、ストリートチルドレンに救助と法律援助を提供した。同時に『鳳凰週刊』にこの問題を報道するよう働きかけ、それによって新疆自治区政府はストリートチルドレン救助を課題として取り上げさせるという積極的成果を上げた。〔この鳳凰週刊の記事の翻訳は その(1) その(2) を参照〕

 また、私はウイグルオンラインをウイグル人社会の意見に影響を与えるツールにもしている。今日のウイグル人社会においては、当局の正統で堅苦しい官製メディアしか存在せず、ウイグル人社会が直面する本当の問題を取り上げ、同時に理性的、穏健的、建設的でもあるメディアは全く存在しない。一方で海外には扇動的言論で社会問題を「直視」するメディアに事欠かない。民族対立激化の危険に直面し、民族問題を討論するとき見解が極論に陥りやすいという新疆の環境〔それは当局の議論を禁ずる言論統制によって作り出された環境である〕の下で、我々の理性的で健康な声によって極論メディアから見解の市場を奪い返し、社会感情を良い方向に発展させることが、最も重要な任務・使命の一つだと私は思っている。

 ウイグルオンラインの独立性とウイグル人社会に類似のウェブサイトが無いことから、絶え間ない議論を通じて、ますます多くの人がその社会的機能と効果を認めるようになり、サイトの知名度と影響力も高まっている。ウイグルオンライン創設過程で、私は非常に大きな圧力を受け、サイトはたびたび強制閉鎖やハッカー攻撃を受け、私もたびたび当局の事情聴取を受けた。まさに他に類似のサイトが無いゆえに、私はウイグルオンラインはかけがえのないものであり、私は正しい仕事をしていると確信している。

結語

 ウイグル人知識人の一人として、私は自然に自分の民族に強い感情を抱いている。とりわけ歴史と環境を原因とするその発展の遅れ、その困窮は、私をいつも不安にさせる。私は自分の国に対しても、同様に強い感情を抱いている。とりわけ私が数十か国を旅行して実感したのは、強いナショナル・アイデンティティーが私の血の中に流れていることだった。わが民族であれ、わが国であれ、その苦しみ、その栄誉は、すなわち私の苦しみであり、私の栄誉である。

 今日の新疆、およびその他の地方において、民族問題は特殊な時代におけるこれまでにない特殊な試練にさらされている。私は感情の面でも、理性の面でも、中国のどの部分であれ分離することは受け入れられない。民族問題において、私は民族の自然融合に反対しない。なぜなら、それは社会の自然法則であり、歴史を振り返れば、漢民族もウイグル民族もどちらも多くの民族的源流の融合の産物だからである。しかし、私は人為的に手配され、計画された民族融合には反対する。本質的に行政的に行われる民族融合は、強制によって分裂をもたらすからだ。寛容に多元化を奨励することこそ、諸民族の融合を促す絆である。

 民族問題の解決は、民族自治の道の方向に着目し、中国を多民族多元文化の、強い魅力をもつ国にすることによってしか成し遂げられない。

 今日の中国の統治の視点から見れば、多民族多元文化の現状は社会転換期の問題と困難の複雑性を増すことであるが、文化と想像力の視点からは、その中のどの民族も計り知れない共同の財産である。通時的に中国の歴史を見ても、また共時的に今日の世界を見ても、文化の多元性と包容性のある国ほど、強大で豊かな創造力を持っている。

 そして、恣意的に自らの文化の独自性と優越性を強調し、統一意識もしくは排他意識の固定化を図るのは、閉鎖的部族社会の発想であり、必然的に恣意的に強調され保護された文化の内在的生命力を枯死させる。

 中国の憲法の中には民族自治の規定があり、それは諸民族の多元文化の共存と発展に良好な枠組みを提供しているが、実践のレベルではまだ探求が必要であり、法令によって具体化していかなければならない。我々は大胆に外国の各種の成功経験の中から法則を学び、中国に適した方法を編み出していくべきである。

 未来に向き合う知恵と心、現実を直視する勇気さえあれば、中国は必ずや中国の歴史を尊重し、中国の国家体制に適合し、国家の統一と民族自治との間の理想的なバランスを取った民族自治の道を見つけ出すことができると私は確信している。

 私はここ何年も新疆に行くことを禁止されているが、私が目撃した中国のここ数十年の深くかつ巨大な進歩と変化はここで止まってしまうことはないと確信している。私の努力と探求がこの国の進歩の一部になり、それを私が誇りに思う日が来ることを私は確信している。

イリハム・トフティ

2011年1月17日

〔 〕内は訳注

転載自由・要出典明記

2014年1月22日水曜日

イリハム・トフティ:私の理想と選んだ道(3)



三、

 私が長い間関心を寄せてきた問題は、新疆と中央アジアの二つである。新疆については転換期の新疆の社会、経済、文化の発展であり、新疆の多民族共存の道であり、中国の国情〔=現行国家体制〕の下での国家の統一維持と地方自治の間のバランスの探求である。

 今日、新疆のほとんどの人々が民族関係を巡っては計画経済時代と胡耀邦-宋漢良時代〔胡耀邦が中共の総書記(1982-1987)で、宋漢良がウイグル自治区の共産党書記(1985-1995)であったのが重なる時代〕を懐かしんでいる。計画経済時代は、政府が資源の平等公平な分配を行うことを通じて、民族間の平等感が良く保たれ、また当時は人口移動が禁止されていたので、不平等を感じる機会自体が欠けていた。胡耀邦-宋漢良時代は、政治的緊張が緩んだので、表面上は人々の不満は増えたが、内心では政府を信任し、政府の抑圧も最少で、社会の求心力は極めて強かった。

 1990年代以降、市場経済化の急速な推進に伴い、新疆の経済は大幅に発展したが、民族間の発展の機会の不均衡は顕著になっていった。とりわけウイグル人社会の転換期の発展には心の痛む状況が出現した。窃盗、スリ、薬物密売、薬物乱用、売春などの問題が、宗教的信仰によってそれらの犯罪に対して天然の文化的抑制が働くはずの民族の間に、あたかも全民族が犯罪民族であるかのような偏見を持たれるほどに急速に広まった。「マルサスの罠」の運命が無情にもウイグル人の身に降りかかったのだ。

 それとともに、これらの深刻な社会問題があろうことか研究のタブーとされ、ほとんど誰もこれらの問題を直視せず、いわんや体系的な社会調査と分析により対応を探ることはなされなかった。ウイグル人社会の問題は、一方で政府と漢人に対するウイグル人の不満と不信を増大させ、もう一方で、漢人、とりわけ内地漢人社会のウイグル人に対する差別的印象を強めた。

ウイグル人知識人の一人として、私はウイグル人社会と漢人社会の間に、猜疑心と不信の巨大な裂け目が日々拡大し、とりわけ若者の間では就職問題、民族差別問題のゆえに憎悪の感情が広く増殖していることを強く感じる。とりわけ七五事件およびその後の一連の相互作用は、矛盾と憎悪の爆発による発散というよりは、新たな蓄積の原因となった。

問題はますます深刻化しているのに、敢えて発言しようとする人はますます減っている。問題は1997年以降の、反「三つの勢力」〔テロリスト・分離主義者・宗教的過激主義者の3勢力〕運動〔弾圧と強制的同化を鮮明に打ち出した1996年の中共中央7号通達の「分離主義者・宗教的過激主義者」に2001年の9・11米国同時多発テロ事件の後に「テロリスト」が加わった〕が地方の主要任務とされたことである。それがもたらした間接的効果は、ウイグル人幹部、知識人が不信の目で見られるようになり、政治的雰囲気が抑圧的になったと人々が感じるようになったことである。

 北京という法環境が比較的良い〔=権力が比較的合法的に行動し、新疆と比べて弾圧が緩い〕場所に住むウイグル人知識人として、新疆問題に注目し研究することは私にとって逃れられない責任である。なぜなら、それはもはや専門知識が必要であるだけでなく、まず第一に必要なのは勇気になってしまっているからだ。

 七五事件の勃発とその前のラサの三一四事件の勃発は、人々に次のような事実を突きつける。それは、激しく転換する現代の中国において民族調和共存の道を探求することは、極めて切迫した任務であるということだ。中国ではもっぱら政治を語り、とりわけ政治的正しさを強調するだけで、法令の整備や政治学の視点から民族の調和共存の環境を改善・創造することが語られることはほとんどない。また、民族の調和共存の技術的問題については、国内でほとんど語られないだけでなく、そのような意識さえも欠如している。

 いかなる美しい政治的動機や願望も、一連の精細かつ周到な技術的支援が不可欠である。ところが中国においては、持続的で忍耐強い技術的取り組みではなく、政府が代価を無視して大規模に社会資源を組織・動員することが習慣化している。一方、マレーシア、シンガポールなどの多民族多元文化国家では、各民族の利益を精細かつ周到にバランスを取って処理し、民族包含と調和共存についてのユニークな技術的経験を積み上げている。その意味で、私の探求と努力は価値あるものだと私は思う。

 民族自治に関しては、民族問題が中国において敏感かつ緊迫した問題になるに伴い、反分離主義の視点に立って国の民族政策の失敗の経験・教訓をくみ取り、中国の民族政策を再検討する議論がますます増えている。しかし、それには強烈な漢民族中心主義思想が含まれ、典型的な統制思想を帯びており、実質的には近年の失敗した少数民族政策の弁解と追認に過ぎない。そして、これらの研究の視野には、外国のうまく解決したり緩和した民族対立、民族分離の危機を乗り越えた多くの事例は全く入っていない。学界のこのような傾向が政策決定者を誤りに導くことを私は深く憂慮している。

中央アジア研究は、私の個人的興味と地縁的な理由である。新疆問題の自然な広がりとして、私は中央アジア諸国の社会、政治、経済、文化の行く末に関心を寄せないわけにはいかない。なぜなら、中央アジアと新疆は長い国境を接しているだけでなく、言語、文化、宗教上の親戚関係にあり、複数の民族が国境を跨いで居住しており、新疆と中央アジアは髪の毛を一本引っ張っただけで全身が動くように、小さな動きが全域に影響する関係だからである。

 そのほかに、地政学的戦略の視点から、中国がいかにして中央アジアの政治、経済、文化領域に効果的に影響を与えうるか、中国が地政学的に安全的な地位を獲得すると同時に、中国と中央アジアの双方の利益をいかにして最大化するかを研究することも、私が関心をもっていることである。

 私は言語を生かした長期的持続的な知識の蓄積だけでなく、旅行を通じても現地の政界・経済界に幅広い人脈を築き、ビジネスの成功経験も持っており、それらすべてが私と国内の一般の中央アジア研究者との違いである。なぜならより近接した資源、情報及び経験を有することで、中央アジア問題を研究する際に、より容易に現地〔=研究対象〕から受け入れられるからである。

 こうした特殊な優位性によって、私は少なからぬ漢人商人の中央アジアにおける投資先探しを成功に導いたし、CNPCやSINOPECなどの中央企業の現地における市場拡大の仲介役を務め、いろいろ厄介な問題も解決してきた。

 私が強く思うのは、中国が中央アジアに対していかに影響を与えるかは、まだまだ真剣かつ体系的に研究されていないテーマであり、中国は中央アジアにおいてより効果的かつ積極的役割を果たすべきであるということである。

〔 〕内は訳注

転載自由・要出典明記

2014年1月21日火曜日

イリハム・トフティ:私の理想と選んだ道(2)



二、
 私は新疆問題と中央アジアの社会経済および地政学の研究する学者である。今日私を政治的人物と描写したり、そうなることを希望する人が後を絶たないが、私は一人の学者であることを堅持するし、政治化されることを望まない。学者以外に私が唯一望む肩書は、民族間の交流と意思疎通を促進する使者ないし架け橋である。

 1994年から、新疆地方政府の誤った政策に対する批判をたびたび直言してきたことなどが理由で、私の教育業務は妨害を受け続け、1999年からは論文発表の機会を奪われ、1999年から2003年の間私は講義することを禁じられた。

 近年、私がますます新疆問題に関する研究と調査に打ち込み、また漢語のウェブサイト「ウイグルオンライン」を開設したことで、私個人の仕事や生活に対する圧力が強まっただけでなく、私の新疆にいる親戚や家族に対する圧力も強まっている。彼らはしばしば私に対し、発言を控え、余計なことに首を突っ込まず、金もうけに専念するよう懇願してくる。しかし同時に私は、新疆問題がますます深刻化し、民間の憎悪が激化していることも目撃している。

 私は、わが民族の中には私のように良い教育を受け、視野を広げ、豊富なキャリアを積んでいる人が少ないことを知っている。我が国には私のように新疆問題と中央アジア問題について天然の優位性を持っている人は少ない。この分野で正しい知識を持ち、責任感のある誠実な学者は極めて少ない。そして中国社会が将来直面するであろう試練は極めて厳しい。だからこそ、圧力に抗して引き続き最も価値があると私自身が考える仕事に打ち込むことは、私にとって必ず果たさなければならない責任である。

だが、社会的責任の求めと、家族を禍に巻き込むことの矛盾は私は苦めている。

 七五事件〔2009年のウルムチ民族衝突事件〕の民族的悲劇が発生してから、新疆問題は一気に世界が注目する焦点となり、私も各方面から注目される話題の人になり、不可避的に政治的人物として扱われるようになった。私は誰であれ、どんな組織であれ新疆問題に関心を寄せることを拒絶しないが、各種の勢力が私を政治的シンボルにしようとする動きについては、たとえそれが善意に出たものであっても拒否する。

 思うに、私には純粋な学者、混じりけのない学者が務まるにすぎず、余暇に普通の人にサポートを提供し、社会に対し能力に応じた公益活動を行うことこそが、わが民族、我が国にとって有益だと思う。

 このような確信に基づき、私は七五事件後に外からの圧力により、経済的に苦しくなった時も、国外団体の援助は、外交機関であれNGO組織であれ、一銭も受け取らなかった。さらには、私は中央アジアと欧米の政界と経済界に太い人脈があるので、彼らとビジネスをすることはできるが、純粋なビジネス上の取引においても外国に関係する金銭は一切受け取ろうと思わない。もし私が漢人なら、そういうお金を受け取っても全く問題ないだろうが、私のように疑いの目を向けられている国民は自分をより厳しく律しなければならず、漢人知識人が想像もできないような圧力と試練に耐えなければならないのだ。

 長い間、民族問題が敏感な問題であり続けているため、社会のレベルで漢人とウイグル人の間には隔たりがあり、漢人知識人とウイグル人知識人の間にさえも正常な交流が欠けている。隔たりと猜疑心が、深刻化し続ける民族問題について、最低限の公開の議論すらできなくさせているということは、極めて異常で恐ろしい雰囲気である。

 それゆえ、私は2005年末に「ウイグルオンライン」を開設し、ウイグル人と漢人が共に討論と交流を行うプラットフォームを作った。そこで行われる交流はもちろん激烈なぶつかり合いの交流であるが、怖いのは争いと意見対立ではなく、本当に怖いのは沈黙の下での猜疑心と憎悪だと私は考えている。

 新疆問題について漢人知識人の幅広い関心を喚起し、彼らに貴重な見解と経験を提供してもらうために、「ウイグルオンライン」創設後、私は漢人知識人との交流に努力し、併せてウイグル人の文化と社会知識の紹介に努めてきた。

 七五事件の悲劇とその後の新疆での民族間の関係は、私に民族的憎悪と猜疑心が蓄積し続けることの恐ろしさを見せつけた。憎悪と猜疑心の硬い氷を解かすために、私は民間で「民族和解の日」の活動を呼びかけた。それは悲劇の7月5日を記念日とし、夏休みを利用して二つの民族の家庭が相互に自分の子供を相手の民族の家庭で生活させ、将来世代の中に民族間の親しみと友情を深めるとともに、異文化を理解し尊重する包容意識を育てることを目指した。この構想は様々な外部の妨害により実施には移せなかった。

 理性、忍耐、寛容、穏健、歴史尊重、現実尊重、未来志向の態度で民族共存の道を探求すべきである。私が受けた教育と訓練によって生まれた理性的認識、そしてたゆまぬ実践の過程で、このような態度が徐々に私の自然な感情になった。

 一人の大学教員として、私は自分の視点、願望そして方法論を学生に伝えたいという強い願望を持っている。私ほど真剣に毎回の講義と教材を準備し、毎週土曜日に無償で学生に新疆問題の公開講義を行い続けるような教師はまれである。

 私はより多くのウイグル人学生が社会学、法学、経済学、政治学、人類学などの専門分野の学習に励み、彼らの職業選択の上でより多く個人の成果と民族と国の文明の進歩を結び付けることを勧める。なぜなら、これらの専攻は、人々に体系的な方法論を与えるだけでなく、彼らの自民族に対する単純素朴で強烈な熱情を、奔放で感性的なエネルギーを、理性的、科学的な態度に変換するからである。こうした訓練と観念の養成は、ウイグル人にとって極めて不足していて貴重であるだけでなく、今日の中国全体においても極めて不足しているからである。

〔 〕内は訳注

転載自由・要出典明記

2014年1月20日月曜日

イリハム・トフティ:私の理想と選んだ道(1)



訳注:原文は2011年1月17日に書かれた。中国国内ではVPNを経由しないと閲覧できない。
  
一、私の成長過程と人生の理想

 私は1969年に新疆のクズルス州アトシュ県政府所在鎮〔現アトシュ市〕のウイグル人家庭に生まれ、ウイグル人と漢人が混住する政府職員宿舎で育った。私の祖父の世代は文盲で、父は新中国〔共産中国のこと〕が養成した第一世代の本当の少数民族知識人だった。1950年代末、父は中学校を卒業すると内地に送られて大学で勉強した。中央民族学院、北京師範大学、蘭州鉄道学院で続けて学び、卒業後は南新疆軍区と地方政府で勤務した。1971年、父が28歳の時文革中に非業の死を遂げた。当時私は2歳、弟はまだ11か月だった。アトシュで自動車修理工をしていた母が一人で私たち兄弟4人を育て上げた。父の当時の同級生は今日では多くが自治区の高級幹部なっている。父は私の自慢だが、父がいったいどんな人だったのか、どのように死んだのかは、上の世代が昔のことを語りたがらず、また当時の複雑な政治が分からないので、私は全く知らない。

 1980年、私の長兄は15歳の時に軍に志願し、まもなく地方政府に転入した。その間、上海、ウルムチ、大連、北京などの地の大学で学業を修め、アトシュ市共青団委員会幹部、書記、クズルス州組織部幹部科科長、クズルス州(クズルス・クルグズ自治州)共青団委員会書記、州機関事務管理局局長、州民政局局長を歴任し、現在はクズルス州交通局共産党委員会書記、州政治協商会議委員である。私の次兄は早くから警察組織で仕事をし、かつて最年少で刑事犯罪捜査大隊長になり、現在はクズルス公安局の共産党規律検査委員会書記、共産党委員会委員をしている。次兄の妻と長兄と次兄の子供も、警察組織で仕事をしている。ある意味で、私の家族は警察一家ということもできる。しかし、近年彼らは私に連座して大いに不利益を被っている。

 1985年、私は16歳で故郷を離れて内地に進学し、中央民族大学(予科)、東北師範大学地理学部(学士課程)、中央民族大学経済研究所(修士課程)で学んだ。学業の上で、私は施政一、陳才、張克武の各教授の影響を受けた。私は一人のウイグル人青年である私に対する彼らの教導を忘れることはできない。彼らの新疆、そしてウイグル社会に対する心からの関心、学術に対する誠実な態度を一生忘れられない。

 1991年、私は大学卒業後中央民族大学で仕事を始めた、当初学部共青団委員会書記を務め、のちに1994年に中央民族大学の経済研究所に異動し、開発経済学、国外経済学を学び、新疆経済を教えた。1996年には自費で韓国に留学し、2001年に中国とパキスタン政府の文化交流事業でパキスタン国家発展研究院に交換派遣され「新疆周辺安全環境と経済発展」問題の研究を行った。2003年に中央民族大学経済学院国際貿易学部に異動し「国際貿易実務」、「国際決済と信用」、「新疆人口、資源と環境の持続可能な発展戦略研究」、「中央アジア政治、経済社会と文化」などのコースを教えてきた。

 1994年ごろから、私は新疆の経済と社会の問題に強い興味を持ち、『光明日報』、『経済参考報』、『西部発展報』などに新疆問題に関する文章を発表したほか、『中央民族大学学報』、『民族教育研究』、『新疆社会科学論壇』、『民族経済』、『カシュガル師範学院学報』などの学術雑誌に20数篇の論文を発表した。早くも1994年に、私は南新疆のカシュガルに経済特区を建設する構想を発表している。専門研究においてより広い視野を持てるように、私は英語のほかに私は韓国語、日本語、ウルドゥー語、ロシア語を自習し、それらの言語で簡単な日常会話と情報取得ができるようになった。

 仕事についてから、私は以前余暇にビジネスを行い、株式市場や合弁工場建設などの事業で少なからぬ収穫があった。教育の仕事が制限を受けるようになってから、友達から完全にビジネスマンに仕事を変えた方がいいと助言されたことがあった。しかし、中央アジア、ロシア、南アジアを広く見て回った際、私は多くの民族対立と殺戮、政情不安、社会転換の失敗などの生々しい事例を目撃した。こうした見聞が、徐々に私に全ての精力を注いで新疆問題、中央アジア問題を研究することを通じて国外の悲劇の中国での再現を回避させたいという願いを強めさせていった。

 そのために、私は自費で大量の社会調査を行い、系統的に社会学、民族学、地政学を学び、経済学の視点以外により幅広い視点と分析ツールを得た。旧ソ連、東欧などの失敗事例を研究しただけでなく、欧米先進国の民族問題と社会問題解決の成功事例も真剣に研究し、中国社会の探求実践に対しより豊富な参考を提供しようと努めてきた。

 私は苦労して私を育てた母を深く愛し、依然として貧しさに苦しむわが民族を深く愛し、私を育てたこの国土を深く愛している。私は私の故郷が内地と同じように豊かに発展することを心から願い、私の故郷、私の国が動乱と分離に陥ることを憂慮している。私はこの多難な国が多民族共存の、輝かしい文明を創造する偉大な国であることを願っている。私は新疆の社会、経済と文化の発展の研究に尽力し、民族間の交流と意思疎通に尽力し、現代の社会転換の中で民族共存の道を探求することに尽力することを、理想と人生の奮闘目標にしていく。私のこの進路選択は、私の出身環境に由来し、母の教えに由来し、私が受けた教育と成長過程に由来している。

〔 〕内は訳注

転載自由・要出典明記