2013年8月21日水曜日

王力雄:私は中国の未来を悲観せざるを得ない



出典:http://woeser.middle-way.net/2013/02/blog-post_8.html

 中国の未来に関する各種の予言の中で、「崩壊論」が最も信じられていないようだ。私は『黄禍』を書いたので、崩壊論者の一人とされている。1991年に出版された『黄禍』は、中国の崩壊とそれに伴う数億人の中国人の世界への逃散が引き起こす様々な衝突を描いた物語だ。禁書にはなったが、当時の読書人のほとんどが地下出版で読み、またその存在を知った。二十数年が過ぎたが、送られてくる出版社の取引明細書では今でも毎回『黄禍』が売れている。それは不思議でもあり、また不思議ではない。中国の未来が不確定であれば、崩壊は可能性の一つとして排除しえず、『黄禍』を読む人も絶えることはない。

 二十年来、『黄禍』に描いた状況は発生しておらず、中国の前途も全く異なるように見える。しかし私は、私が描いたわざわいが一歩一歩近づいており、はるか遠くの話ではないと常々感じている。

 私に反対する説はこう言う。中国には亡国論が消えたことはなく、アヘン戦争の際の列強による分割、民国初年の軍閥乱戦、日本による中国の過半の占領、文革に六四天安門事件、どれもすぐにも国が亡ぶと言われていたが、みんな乗り切ったじゃないか? 未来の中国もやはりいざとなったら何とかなる。崩壊論は杞憂に過ぎない。

最大の危機

 これについてまず語るべきは、中国の危機ではなく中国の安定である。まさに現在の安定の下に、最大の危機がある。

 本当に安定している社会は多重の統合が同時に併存する。組織統合だけ見ても、政権はその一つに過ぎず、民間組織、宗教組織、多党制など、すべてが統合作用を発揮する。表面的には、多元的組織は競争と衝突を生むが、本当の安定にはそれが不可欠である。例えば、政権党が失脚したら、野党が直ちにそれに代わることで、権力の空白による混乱を回避することができる。
 文化的伝統、宗教信仰、道徳倫理、イデオロギーなど、どれにも社会統合の作用がある。良好な法治、見えざる手の市場、および憲法に従う国家に帰属する軍隊なども、政権の崩壊の際に社会を維持し、その崩壊を防ぐ。

 しかし今日の中国には、他の統合メカニズムは全く存在せず、政権が社会統合のすべての機能を独占し、その政権は一つの党だけに帰属している。その党を代替しうるものは全て、制圧され、根絶されて、その党以外のいかなる勢力も消滅させられる。政権の行政体系と警察力に依存する党だけが十三億人を細大漏らさずコントロールする。

 その党は確かにやり遂げた。それに対するいかなる挑戦も卵で石を打つに等しく、さらには挑戦の機会さえ与えない。しかし、まさにこうした党にとっての安定が、中国の最大のリスクである。その党が失脚したら、社会全体の統合が失われる。まさにそのような意味で、中共は中国を人質に取っている。中共が亡ぶとき、中国も道連れにする。

激変は突然やってくる

 今日の中共の根本目標は、自らの権力維持である。その最大規模の権力行使たる安定は、社会の安定ではなく権力の安定である。その安定のためのあらゆる行為が、権力に対する不満を抑えつけ、権力に対する挑戦を消滅させ、体制外の活動を制限し、体制外組織を圧殺し、社会的圧力放出の全てのバルブを塞ぐことに向けられている。

 安全弁のない圧力鍋を想像してみよう。全ての吹き出し口が塞がれたまま火にかけられている。見たところ確かに安全弁がはねて蒸気を吹き出すより静かで清潔だ(安定維持体制ではすべて下級は上級にこのように静かだと報告する)。しかしこの時、実情を知っている人はどんな予測をするだろう? またどんな結果が生じるだろう?

 これについて、役人と商人が一番よく知っている。中国という鍋は遅かれ早かれ爆発するから、賢いやり方はできるだけ早く海外に逃げ出すことだ。ひけらかされる中国の繁栄から最も多くの利益を得ている中心メンバーは続々と財産を持って逃げ出している。それこそが何より雄弁に隠れた危機を物語っている。

 もちろん、政権に挑戦できる勢力が見当たらないので、多くの人が中国は変わらないし、崩壊もしないと思っている。だが突然の変化は大きな勢力や大きな事件によってのみもたらされるのではない。最後の一本の藁がラクダを倒す。突然の変化が事前に予測できないことの典型例は、当時あれほど多くのソ連専門家がいたのに、ソ連の崩壊を彼らは誰一人として予想できなかったことであろう。

 米国の物理学者パー・バク〔デンマークの物理学者〕とカン・チェンは「自己組織化臨界」(Self-organized criticality)を研究した。砂山が臨界に達したとき、バラバラな砂の間に、ある種の「一体性」が形成される。つまり砂粒の微細運動とエネルギーが砂山全体を貫く。その時、どれかわからないある砂粒(規則性がなく特定できない)が砂山全体に崩れ、つまり崩壊、を生じさせる。臨界に達した社会もおなじであり、弾圧の強化は崩壊を先延ばしできるが、絶え間なく砂山の周囲をたたき固めて砂山を高くするのと同じく、最終的には崩れる。しかも高くすればするほど、崩れ方も激しくなる。

 人間社会と砂山の違いは、砂山を構成する砂粒には能動的変化がないということである。社会の安定状況下では、人の能動性は法と秩序に統合されて、臨界点は大幅に高められる。万一社会が崩壊し、法と秩序が失われていたら人の能動性は逆に崩壊を推進する加速剤となり、臨界点も非常に低くなる。経験が証明するところでは、平常時に非常に強い安定性を有する大規模システムは、いったん崩れると「負けると山崩れのようになる(=収拾がつかなくなる)」。

利益がなければ安定しない

 毛沢東時代の経済危機では数千万人が餓死したのに、政権は揺るがなかった。当時は政治と経済が分離しており、政治がすべてに優先し、経済は局部的問題だったから、経済危機は政治の安定に影響しなかったのだ。鄧小平は経済至上主義に転換し、経済発展を社会矛盾解決の万能薬と見なし、カネで安定を買った――民衆を服従させるために利益を提供して、民衆にとって服従と利益は緊密に一体化した。この時、いかなる経済問題も同時に政治問題となった。利益が上がれば太平をことほぎ、利益が上がらなければ集団で攻撃する――利益があれば安定し、利益がなければ不安定化する。そしてこの利益が「ある」と利益が「ない」の一語の差が、一見安定している社会を一変させる。

 このような状況下では、権力集団は中国社会の経済を疾走させ続けなければならない。しかし、経済発展にはそれ自体の規律と周期性があり、緩急があり、永遠に高度成長し続けることはできない。世界中のかつて経済の優等生と見なされた国のほとんどが危機に見舞われて寂れ、衰退した。中国経済も例外ではない。

 ある社会の安定と不安定は、順調なときではなく挫折したときに明らかになる。現在の中国は、生産過剰を特徴とする古典経済学的危機にせよ、金融危機を特徴とする現代経済学的危機にせよ、あるいは輸出チェーンの中断を特徴とするグローバル経済危機にせよ、多くのリスクを抱えており、危機のエネルギーをため込んでいる。そして、経済至上主義の社会では、人民は再びイデオロギーを信じようとはせず、独裁政権は自らの権力の合法性を「主義」に頼ることはできず、また民主主義の実行により合法性を得ることも拒否しているので、有効性によって合法性を代替するしかない。中共政権にとって、有効性とは経済の絶え間ない発展であり、一旦経済危機が発生すれば、それは政権の有効性の喪失を意味し、人民の服従は低下し、政治危機を生じ、社会危機を引き起こす。
 三つの危機が重なった時が運の尽きである。

独裁下の「連携」

 中国独特の現象である広範囲の局所不安定(毎年十数万件の集団反抗事件が起きている)と全体の超安定が併存できるのは、独裁政権が反抗の連携を断ち切ることができるからである。局所の反抗の相互間に時間差があれば、政権は武器の独占および組織、通信、機動性の面での絶対的優位を利用して、力を集中して個別に鎮圧できる。いかなる局所的反抗も当局のこのような優位の前には無力である。唯一パワーバランスを変更できるのは、多くの局所的反抗が同じ時に発生し、全般的混乱に転化し、政権の対応が間に合わず、弾圧の力が分散して焼け石に水となり、政権の優位が消失したときである。しかし同時発生の前提は連携であるから、独裁政権が連携をタブーと見なすのは驚くに値しない。独裁政策の大きな内容――結社の禁止、民間の新聞発行の禁止、NGOの厳禁、宗教組織の統制、インターネット監視警察の設立など、元をたどればいずれも連携の防止が目的である。

 千年にわたって進化してきた統治の技巧と今日の日進月歩の技術は、中共政権に空前の統治能力を獲得させ、人類史上最強のリヴァイアサンになり、その解決法は無いように見える。しかし連携の視点から見ると、独裁政権は社会の政治上の連携を切断できるが、社会の日常生活と経済活動における連携は切断できない。とりわけ市場経済は本質的に経済的連携の過程であるから、次のような可能性が存在する。なにか経済もしくは人々の共同生活の全体をカバーする事件が、突然に全社会を動員する号令となり、各地での反抗が同時に勃発すれば連携の実現に相当する。情報がスムーズでなかった古代には、このような連携はだれにでも見える彗星、日食もしくは自然災害によって引き起こされた。政治的混乱の時代には、このような連携は政治家の死亡(周恩来や胡耀邦)、デマやうわさ話によって引き起こされた。経済の一体化が進む今日では、このような連携は金融危機、株価の暴落、大規模な失業などによって実現する可能性が最も高い。そしてこの種の連携は政治的弾圧では防ぐことができない。むしろ政治的弾圧の効率が良ければよいほど、社会はこの種の方法によってしか政治的連携を実現できない。

 ただし、このような方法による連携は広まることはできるが、レベルを高めることはできず、往々にして騒動、群集心理、落ち目になると皆が叩き、社会の権力システムに対する不服従の連鎖的拡大にとどまり、往々にして権力システムの反応が間に合わずに麻痺して崩壊に至る。未来の中国の激変は、この種の経済危機が引き起こす大規模騒乱の可能性が最も大きいと私は思う。

囚人の集団的非理性

 中国は混乱しないと断言する人の大部分は、誰も混乱を望んでいないということを論拠とする。しかし「囚人のジレンマ」を見てみよう。二人の囚人が共に殺人を否認したら、二人とも窃盗罪で1年の刑、もし一人が殺人を自白して、もう一人が否認したら、自白者は3か月、否認者は10年の刑、二人とも殺人を自白したら、二人とも5年の刑。二人にとって最も有利なのは明らかにともに否認することだが、それには「共謀」――口裏合わせと相互信頼を含む――が必要である。しかし、審理は分離して行われ、口裏合わせは不可能であり、二人とも相手を信じない。なぜならもし自分が否認して相手が自白したら、相手は3か月だけだが自分は10年になる。そこで二人にとっての個人的理性の選択は自白ということになる。自白すれば少なくとも10年の刑は免れ、万一相手が否認したら、自分は3か月で出られる。その結果二人とも5年の刑で、共に否認するよりはるかに悪い。このように個人的理性の選択は、合成すると集団的非理性になる。この結果がいわゆる非協力均衡である。

 非協力の状況下で、各人は利己的な目的を目指すが、結果は他人を犠牲にしても自分に利益はなく、共に不利である。このような個人的理性と集団的理性の衝突は人間の現実生活の中では、アダム・スミスの「見えざる手」と形容される自発的理性より一般的である。したがって、誰も混乱を望まないということは中国が混乱しない理由として成立しない。誰も混乱を望まないというのは個人的理性に過ぎず、中国が混乱に陥るかどうかは集団的理性によって決まる。「共謀」できない状況下では、集団的理性を実現する唯一の可能性は全ての「部内者」が「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」の原則(原則自体が広義の共謀である)を実行することである。しかし、人は利己的であり、別の「部内者」が全て原則を順守したとき、自分が原則を破れば最大の利益を得られるならば、一人も誘惑に負けないということは実現しがたい。たった一人の「部内者」が原則を破り(もしくは破ったと疑われ)たら、他の「部内者」が競ってそれに続いて原則を破る。すでに文化と道徳の「共謀」が失われた中で、全ての中国人が「己の欲せざる所は、人に施すなかれ」を実行できるなどとどうして信じられようか?

 囚人のゲームの事例では二人の「部内者」だけでさえ「共謀」できず集団的非理性を招いた。中国が混乱に陥るかどうかの問題には、13億人の「部内者」がいて、それぞれが独立変数なのだから、どうして「共謀」が実現できようか? 変数が一定以上多くなるといわゆる「カオス」状態になり、その発展方向はいかなる単独変数の主導からも離脱し、全ての変数の和でもなく、予測できない結果を生むだろう。ゆえに、13億人が形成するカオスは、混乱を望まないという共通の願望から遠く離れるだろう。政変でもなく、革命でもなく、絶え間ない崩壊と粉砕である。

断崖の底

 そしてカタストロフィー理論によれば、カタストロフィーには安定した中間状態はなく、断崖を落ちる時に途中で止まることがないのと同じように、底まで落ちてはじめて平衡状態になる。

 中国経済が政権崩壊の影響を受けなくてもいいなら、もしくはその影響が非常にわずかなら、確かに楽観論者が言うように中共の崩壊は中国の崩壊ではなく、中国はそれによって良くなるだけだ。たとえ一定期間の権力の空白ができても、人々は普段通り生活し、新政権が徐々の形成されて中国の統合も再び実現する。

 しかし、今日は以前とは一つの重要な違いがある。それは経済が高度に一体化し、自給自足の個人経済や地域経済ではなくなったことだ。個人経済は伝統的な農耕、放牧、狩猟採集や簡単な交換によってのみ存在しうる。今日の世界の大多数の人はとっくに土地、自然、農村の定期市を離れ、人類を養う大部分の製品は生態系の「表面」から供給されるのではなく、社会統合を通じて実現された大規模分業と科学技術によって、生態系の「深層」から押し出されたものだ。そして押し出しの前提は組織と管理であり、一体化した経済によって交換される。

 例えば、今日の農業から化学肥料を抜いたら、生産量は半分以下に減る。化学肥料製造の原料は主に地下から採掘した鉱物だ。化学肥料は膨大な資金を必要とし、多くの人を動かし、鉱山、油田、ガス田を建設し、採掘精製して化学肥料になり、さらに全国をカバーする分配ネットワークと輸送システムを通じて、農家に届けられ、農地に撒かれ、そうしてやっと残り半分の農作物生産量になる。このように生態系の深層のエネルギーを人間の食品に転換する過程は、精密な管理と一体化した流通がなければ全く実現できないのだ。

 政権の崩壊でまず影響を受けるのは管理だ。上述の採掘、製造、資金、分配、輸送のチェーンのどこかが中断したら、中国の多くの農地は化学肥料が投入できない状況に追い込まれる。その時、数億の農民があわてることなく生産を続けたとしても、食糧生産量は大幅に減少し、都市は飢饉に陥る。似たような状況は一体化した全てのチェーンに出現し、もたらされたアウトプット不足は生産を下降スパイラルに陥らせ、生態系深層から押し出された経済体系は解体を続ける。そして、満身創痍の生態表面は人間の生存を維持する最低限の資源を提供できず、社会の崩壊は激しさを増す。現在構想されている中共政権崩壊後の各地の自治、群雄割拠、民主選挙などは、このような欠乏の前では短期間の中間段階にすぎず、破片化から粉末化へと進み、断崖の底は今想像されているよりはるかに深いだろう。

 私が『黄禍』で描いた崩壊はすでにかなり悲惨だが、一部の冷静な読者は甘すぎると考えている。私は大量の人の死が忍び難かったので、数日で成熟する「薯瓜」や中国人の組織的な世界への大移動といった各種の奇跡を作り出した。これらは真実の世界では出現しえない。私があのように書いたのは、論理からではなく、小説の中のことは私が決められるからにすぎない。

スティーブン・キングの物語

 現在、私も中国の危機がすぐに来るとは思っていない。一部の人々は中国は今後も20年間経済の高度成長を続け、経済が順調なら、他がどんなに悪くても対応できるという。日々繁栄していると、危機論者は往々にして狼少年と見なされる。私は中国の岐路は遅かれ早かれ来ると確信している。わからないのはいつそれが起こるかにすぎない。たとえ20年後だったとしても、歴史の大河の中でそれにどんな意味があろう?

 日常常識ではよく「万が一」という言葉を使って人を諌める。中国の崩壊の可能性が一万分の一だったとしても(誰もそんなに小さいとは保証できないが)、また深刻な結果が出てからはより大きな力を投入しなければならないことは考慮せず、同様に一万分の一の力で対応するとして、13億の中国人なら13万人の投入が必要だ――まだまだじゃないか!

 私から見れば、「狼が来た!」を嘲笑するのは簡単だが、その呼びかけを直視する方がより有益である。「取り越し苦労」はせいぜい心配が無駄になるだけだが、「棺桶を見ないうちは涙を流さない」とすれば、棺桶を見た時には後の祭りだ。前者の代償は取るに足りないが、後者の代償は負担しきれない。昔の人は「事に臨んで惧れ、三思して行い、好く謀って成る」という慎重原則を残したが、その意味は悪い結果と可能性についてよく考慮し、事に当たっては悪い方から考えてはじめて負けなしの立場に立てるということである。このような意味の悲観論者は、実は社会にとって有益な善玉なのである。

 米国の小説家スティーブン・キングの『デッドゾーン』では、主人公はジョニーという名の男で、子供のころ頭を氷にぶつけてから予感できるようになった。のちに彼は人のために予言することに嫌気がさし、小さな町に隠居した。ある日彼は新聞で労働者を代表していると自称する人が州議会議員に立候補し、極端なポピュリズム路線を取り、大人気を博しているのを知った。州議会議員選挙は米国にとっては小さなことで、新聞のベタ記事だが、ジョニーの頭の中ではその時一瞬スズメの群れが飛んだ――いつも予感が現れる時そうなるように。その後幻覚の中でその候補が将来州知事になり、大統領になり、ついには核戦争を起こし、世界を滅亡させるのを見た。

 小説の前の部分は伏線で、ジョニーの予言がいかに正確かが描かれる。作者がそう書くと、読者はもちろんジョニーが立ち上がって制止しなければ、予感の一つ一つが実現していくであろうことを信じる。しかし、たとえジョニーが世界に警告しても、証明も説得もできない。そこで、ジョニーは自分で動き出す。銃を買って、その候補者を狙撃しようとするが、彼は素人なので狙いを外してしまう。続いて、候補者が逃げ、彼が追いかける。候補者が演説を聞きに来た女性の脇を駆け抜けた時、女性の抱いていた子供を取り上げ、弾除けに自分の前にかかげる。ジョニーは照準を合わせていたが、子供がいたので、一瞬引き金を引くのが遅れ、追ってきたガードマンが彼を押し倒す。

 候補者が現場で子供を弾除けにする動作は、一人の記者によって写真に撮られる。その記者はスポーツ選手だったので、走るのが早く、候補者のガードマンから逃げ切る。その写真が新聞に載ると、候補者の政治生命はもちろん断たれ、州議会議員にも当選できず、もちろん大統領にもなれなかったので、世界の災厄はこのようにこっそりと消された。しかし、だれもジョニーの役割は知らず、小説の末尾では彼は危険な精神病患者として精神病院に隔離される。

 この物語は、ある予言が外れて嘲笑されたとしても、予言が間違っていたとは限らず、むしろ予言が正しかったから、予言に基づいて行った努力が効果を発揮して予言が外れたのかもしれず、それで初めて預言者が嘲笑されたり精神病とされたのかもしれないということを私たちに告げる。万能の神はこのような気まずさを避けるために、予言を行うときにはいつも一つの条件――人々が信じない――を付けるということだ。誰も信じなければ、彼の予言は初めて実現し、人々も最終的に彼の英明さに気づくのだ。

 しかし積極的な悲観論者はジョニーのように悲劇を押しとどめようとし、嘲笑されることも、精神病院に隔離されることさえも恐れない。

【初出は週刊『陽光時務』第041期】 
(転載自由、要出典明記)

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